CSR

最近はCSR(Corporate Social Responsibility=企業の社会的責任)が、やかましく言われるようになってきた。平たく言うと、利益ばっかり追求しないでちゃんと社会の一員として貢献しましょう、ということだ。

昔だったら慈善団体への寄付とか文化活動など、どちらかと言うと宣伝色が強かった。最近は営利を抜きにした社会貢献活動の全般を指して言うようになってきた。個人だったら損得抜きでやる災害時のボランティアとかなど、(宣伝目的は抜きに)人として当たり前のこととしてやりましょうとか、もっと広い意味では法律を守りましょう、モラルを持ちましょう、ということまで含まれる。

 

ただ改めて考えたいのは、CSRという概念は決して「進歩」ではない、ということだ。法人も「人」と言う言葉が付いているように、そこには意思も人格もある。CSRは昔の日本の経営者であれば当たり前に持っていた使命感や節度である。

いまさら「法律を守りましょう」とか、「利益抜きにして人として当然のことをしましょう」と改めてを言わなければならなくないのは、それだけモラルが下がっている、ということだ。決して喜ばしいことではない。

元々CSRというのはアメリカから来た概念だ。アメリカは経済的には発達しているが、歴史も浅く「文明」はあっても「文化」には決して成熟した国ではない。さらに多民族で、肉食で略奪がDNAに刻み込まれた「アングロ・サクソン」の国なのだ。極端に言えば、CSRという概念を作らないととめどもなく略奪してしまいそうなで、どこかで自制をかけなければあの国はやっていけない。

そんな未成熟な国の水準に合わせて、CSRを叫ばなければならないのは情けない限りである。

 

もうひとつ忘れてはならないのは、「合理化」がモラルを下げる大きな原因になっていることだ。

「合理化」は一見良さ尽くめそうであるが、その結果どんどん余裕が無くなり、いろんな事が味気なくなっていることもまた事実だ。昔は短期的な利潤はさておき、社会貢献や大所高所からものごとを判断する経営者が多かった。合理性の追求が、自由な判断=創造性の発揮を難しくしている。

いつの時代も芸術を支えてきたのは「パトロン」と呼ばれる富裕層であった。実際、旧財閥系が立てた美術館はとても多い。….それが今だったら株主代表訴訟で訴えられかねない。(笑) ホントにこのまま合理性だけを追求していいのだろうか?

銀行の貸し剥がしも「合理性」を再考する良い例である。数字は悪くても数字を見てじっくり育てる、という昔のようなやり方が難しくなってきた。経営者の資質や技術は決算書のどこにも出てこない。でも中小企業の審査にコストは掛けられない、ということで機械に数字を打ち込み、パッパッパッと計算である。それで数字が下がれば融資回収。合理性でかえって時代に逆行している。晴れの時に傘を貸して、雨の時に傘を取り上げる、と言われるような商売のまま、この先10年、20年と続けられる、と思う方が無理がある。図体は大きいけど、広い意味でCSRを考えないと日本の銀行は本当に危ないと思う。

 

いろいろ書きましたが、一番言いたいのは「CSR」って言ってる時点で恥ずかしいんですよ、ってことです。

少なくともその自覚は必要です。

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